SheepLeap
Case.03 【斑鳩 美咲 と 日野河 海里 の場合】
―Intro―
耳の奥に、微かに水音が聞こえる。微睡みを感じて自分が今眠っていたことに気付く。長期の研究疲れに眠ってしまったのだろうか…。
重い頭をようやく働かせ、ゆっくりと目を開ける。
見慣れぬ研究室。壁も床も、天井も、何もかもが白い。重い頭を働かせようとしても、何故だか記憶を辿ることができない。
ふと顔を上げると、共に研究を重ねた同僚──斑鳩 美咲(いかるが みさき)が、同じように不思議そうな顔をしている。
僕──日野河 海里(ひのかわ みさと)はそんな中で目を覚ました。
─First Roll─
「海里……君?」
「……え?美咲じゃん!?」
目の前に居る女性、それは紛れもなく僕と共に電子工学を専門として研究を共にした斑鳩 美咲であった。
「え、軽っ!?現状は無視っ!?」
「えっ!?いや、そうなんだけどさっ!?
てか何これ!?ドッキリ!?」
「いや……えっと…最後どこに居たか覚えてる…?」
「……いや、ちょっと記憶が……なんかぼやぼやするというか……」
頭の中にぼんやりとモヤが浮かぶように、記憶が戻ってこない感じがする。
僕が首を傾げると、周囲をキョロキョロと見回す美咲の姿が目に映る。その姿に何だか、すごく大事なことを忘れているような……焦燥感のような、虚無感のような、そんな物が心をじわじわと蝕んでいく、そんな感覚が襲い掛かる。
美咲に習い周囲を見回すと、なるほど、見覚えのある型のパソコンや資料の入った棚が置いてあった。どうやらここは研究室のようだ。
ただ、どうしても違和感が拭えないのは、ここに出入り口のような扉はなく、壁も床も天井も、気色の悪いほどに真っ白であるからだろう。
耐え切れず口を開く。
「研究室……だよな、ここ」
「こんな部屋あったっけ……覚えある?」
「いや……僕らが知らんだけであったんちゃうかな……?
うん、そうだよな、そうじゃないとおかしいもんなぁ、な!」
「そう……だよね、うん。
きっとそうだよ」
ビ────…………
その時、部屋に警告音のようなノイズが鳴り響く。
「え!?何!?」
美咲が悲鳴のような、警戒した声を上げる。
ノイズの元を目で探し辿り着いた先、それは部屋の隅に置かれたパソコンであった。真っ黒であったモニターには、気付けば刻々と減少していく数字が映し出されていた。
僕の頭にとある記憶が蘇る。明白に呼び起こされるそれ。そうだ、この数字が0になれば──そして僕の使命は────
「と、とりあえず部屋を調べよっか。何とかしてここから出ないと……」
顔を少し青ざめながら、美咲も我を取り戻したように言葉を絞り出した。
「そうだな……なんかマズい気がする……」
僕もまた、それに釣られるように応答した。
「パソコン……ちょっと調べてみよっか……」
「僕もついていくわ、なんかあったらヤバイし」
2人の意見が合致し、ゆっくりと僕たちはモニターに近づいた。映し出される無機質な数字。刻一刻と迫る時間を現すそれに、また記憶が思い起こされる。
呼び起される記憶。白衣を着た男達、捲し立てる様な怒号の中で聞き取れた微かな一言。
毒ガス────この数字が0になった時、この部屋が毒ガスで満たされる、それを思い出した。隣に立つ美咲も少し体が震えている。
「毒ガス……」
美咲の口をついて出たような不意の一言に、僕は唇を噛みしめることしかできなかった。
しかし、裏を返せばこの減る数字を止めさえすれば毒ガスを止めることができる──そう自分に言い聞かせ、気を保つ。
「な、なぁ?他のとこ調べね?パソコンは一旦保留しておいて、
もっと大きなとこから潰していこうや!」
なるべく明るく振る舞う。そうしなければ自分だけでなく、美咲もまた不安に押しつぶされるだろう。自分への叱咤と美咲への激励を込めた一言だった。
「そう……だね。うん、そうしよっか……」
提案し、僕は部屋を見渡した。美咲もまた同様に周囲をざっと見回した。そして、僕達の視線は壁の一部でふっと止まった。
壁の一部、大人1人分ほどのスペースに違和感を覚える。壁の色に混じってよく見なければわからないが、元々あった扉を改造して固く閉ざした、そんな印象を与えられた。これの意味すること、それはこの部屋が僕達だけの為に作られた部屋であるということだ。
「これ扉じゃね……開くかな?」
「どうだろ、鉄っぽい……?蹴破れる感じでは」
美咲の言葉を遮るように扉にタックルを入れる。ガンッという音と共に肩に強い衝撃が走りバランスを崩して倒れ込んだ。
「ちょっ!大丈夫!?」
「んっ……あー!めっちゃ固いわこれ!ダメだわ、力づくじゃどうしようもねぇ!!」
「いや、鉄だから!知ってる!!」
─Second Roll─
「あれ……ファイル落ちてる……」
先ほどのタックルの衝撃だろうか、棚のすぐ近くには青、白、黒のファイルが3冊、そして一枚の書類が落ちていた。
近づいてみると電子工学の研究とは程遠い書類、それは精神疾患の診断書であった。写真と名前は黒く塗りつぶされ、それが誰であるかはわかりそうもない。しかし、僕はそれになぜか見覚えがあった。なぜかはわからない、ただそれに得も言われぬ既視感を覚えた。
手に取ろうとしたのか、美咲はすっとかがみ、そしてふらりと体を傾けた。
「おい!」
慌てて僕もかがみ、地面にぶつかる直前で美咲を受け止めることができた。
「海里君……時間……あんまりないかも……」
毒ガスの4文字が脳裏をよぎった。早く、早くここから出なければならない。美咲を支え起こす僕に焦燥感が襲い掛かった。
「とりあえずあまり美咲は屈まない方がいいみたいやな……」
「ごめんね……でももう大丈夫だよ……」
そういいながら、美咲は僕の肩を離れた。
「いけそうか?」
「うん、もう大丈夫。ありがと」
そう言う美咲の笑顔は眩しかった。その笑顔が僕の記憶を刺激し、なぜだろう、胸のあたりに不思議な感覚が広がった。幸福感というものか、それにしては塩気が強かった気がした。
「そういえば、パソコン二台あるね……」
言われてみれば、残り少ない時間が表示されたパソコンの横にはケーブルで繋がれたノートパソコンが置かれ、静かに光を放っていた。
「そうだなぁ……今ファイル取るのに屈むのは危ない気がするし、とりあえず先にそっち調べるか」
モニターを覗き込むとデスクトップには特にこれといったファイルはなく、ただ1つ、メモが置かれていた。僕は慎重にそれをダブルクリックする。ポップアップされたメモファイル。そこには1文だけが無機質に表示された。
『その首で贖罪を』
ノートパソコンの隣にはベッドが置かれ、その上には小さな人形と、見るからに鋭利なノコギリが置かれていた。
「その首で贖罪を……?」
美咲が震える声でその文章を復唱する。しかし、その震えと裏腹に僕の脳内は冷静であった。記憶が蘇る。
首────贖罪────
─Third Roll─
美咲はベッドの上の人形を見つめていた。好奇心と、それ以外の感情を帯びたその表情はどこか、そう、虚ろといった具合であった。
しかし僕の目はある物に釘づけになっていた。その刃を輝かせ、人形の横に不自然に置かれている物。僕は不意にそのノコギリを手に取っていた。美咲がそれに気づいていたかはわからない。しかしそれを持ったまま、僕は床に落ちた青いファイルを手に取った。
それは電子工学に関する資料であった。その中には、アンドロイドの精巧さ、工場での製造に携わっている現状、その精巧さ故に死刑執行の見届けや人間の日常をサポートする仕事に携わっていること、自身の感情を持つ回路の開発などのポジティブな項目が書かれていた。同時に、感情回路による感情の暴走などの不具合、ボディ部分の欠点、主に頸部の接続部分、そして耐水性の低さが指摘されているようだった。
読み上げつつ、記憶がゆっくりとこみ上げるように思い起こされる。美咲と共にパソコンに向かいプログラムをしたこと。それによって動き出したアンドロイドのこと。そうだ、僕たちはここで電子工学、アンドロイドの研究をしていたのだった。
「そうや……僕ら、感情回路の研究とかしてたんやったな……」
そうつぶやき、僕はどこか遠い目で部屋を眺めていた。この部屋ではない、それでも僕達はこの場所で日夜研究に没頭していたのだった。
「美咲君……何持ってるの……?」
怯えたような声が部屋に響き、僕は美咲の方を振り返った。
「え……いや……ノコギリみたいな!?ほら、脱出するのに使えるかもしれないし!?」
「今必要ないじゃん!気持ち悪いから元に戻してっ!!」
必死な美咲の発言はごもっともだ。当然の反応であろう。しかし、僕はどうしてもそれを離したくなかった。
「えぇ!やだよ、ほら、カッコイイじゃん!?持ってたいなぁってさぁ!」
こちらも相応に必死になってお道化てみせる。そうしなければ、いけなかったのだ。
その様子に、美咲はより一層、捲し立てるように僕に言い放った。
「危ないじゃん!いいからはやく置いて!!」
その時、不意のフラッシュバックが僕を襲った。あの時も、こんな小さなことがきっかけだった気がする。言葉に共通点はないかもしれない、しかしこの権幕に僕は覚えがあった。
一瞬くらっとした頭が強い熱を持っている。これ以上はいけない。僕はゆっくりと動き、ベッドにそのノコギリを戻した。ちぇー、カッコイイのになぁ、なんていう渾身のお道化を入れながら。
美咲の不信感が募ってしまったかもしれない、それでも僕たちは共に行動せざるを得ない。共にこの部屋を出なければならないのだから。僕はそうでもないが、美咲はどこか不服なような、ネガティブな顔をしながら共に黒いファイルを手に取った。
それは、研究など関係のないスクラップブックの様だった。ゴシップ誌の一部を切り出し構成されたそのページの見出しは『狂気!恋人を殺した電子工学研究員』だ。内容としてはよくある殺人事件、恋人であった同僚の研究員を殺した優秀な女性研究者。まさに売れない記者が飛びつきそうな、そんな印象を与えられるくだらない記事だった。内容だけは。
容疑者、そして被害者の顔写真を見た美咲の顔が一瞬引きつる。僕は美咲のその刹那の表情を見逃さなかった。きっと、彼女もまた気づいてしまっただろうから。
容疑者の顔は斑鳩 美咲、被害者は日野河 海里と瓜二つであった。
─Fourth Roll─
ふと、僕は急にモニターが気になった。時間はそう残されていないだろう、せめてその時間を見ておきたかったのだ。刻々と、無機質に数字を映すモニター、そしてそこから伸びたケーブルの先にあるノートパソコン。その影、僕はある物に気付く。
それは、よく生物実験室に置かれているホルマリン漬けの標本を入れるような、そんな保管容器だった。大きさはきっと、大人の頭ならすっぽり入ってしまうくらいの大きさだろう。
『その首で贖罪を』
つまり、そういうことなのだろう。僕は冷静に、その保管容器からすぐに目線を外したのだった。
「海里君」
静かな、まるで海のような声が聞こえた。僕はふっと振り返った。
「これ……どういうことかな……」
不安げに、斑鳩 美咲は俯きながら呟いた。その声は震え、恐怖に支配されている、そんな印象を与えてくる。しかし僕は知っている。彼女は気づいてしまっているのだ。全ての事実、そしてこのファイルの真実に。そんな彼女を放っておけるはずはなかった。
「ほら……あれやって!世の中には3人似た人が居るって言うじゃん!?それやってそれー!ほら、目元とかもう全然違うし!僕ってもっと善人そうな目してるやーん!」
精一杯のお道化。僕にできる、彼女の為の行為はこれが限界だろう。限られた空間で、彼女の不安を解消できるのは、いつもと変わらない僕の姿だけだ、そう思った。そうであってほしかったのかもしれない。
「……もう、ホント、海里君はいっつも適当なんだから!」
そう言いつつ、美咲もまた屈託のない笑顔を僕に向けてくれた。
「いやいや!案外あるもんやと思うで、他人の空似ってさぁ!!」
「いやーそれにしても似てるよねぇ……すごいなぁ……」
「ほら、これアレじゃない?ドッキリ的な?あのクソ老害上司の悪ふざけだろ?棚とかに隠しカメラとかあったりしてさぁ」
「あぁ、あの人ならやりそうかもね……これは出たらたっぷりお仕置きしないと……」
「せやせや、早くここから出て、ドタマに一発パチコーン入れてやらないけませんなぁ!」
僕のケラケラという笑い声に、美咲のクスクスという笑いが重なる。非常識的な空間に少しだけ、日常を取り戻すことができた。それが如何なる結果を迎えようと、僕はそれを達成できた満足感を感じることができていたのかもしれない。
「さて、そうと決まれば!早速この部屋から出ないとね!」
すっくと立ち上がり、美咲は壁の方へ近づいた。
「おいおい、抜け駆けはよくないでー!」
僕は相変わらず、お道化てみせながらそのあとを追いかけた。
壁に優しく触れながら、美咲は部屋の四辺をゆっくりと進んでいく。僕はその後をゆっくりとついていった。と、突然美咲が歩みを止め、僕もそれにつられる形で足を止めた。
「ん?何かあった?」
「ここ……少しだけ違うよ……」
「ここか……?」
美咲が触れていたところに触れる。確かに、材質が違うようだ。撫でてみると、長方形の形になっているようだ。
「窓っぽいな……元々窓だった場所かな……」
「指引っかける場所もあるし……引けそうだね」
「何があるかわからないし、僕が引くわ」
窪みに指を引っかけ、力を込めて引っ張る。それは思ったよりも簡単に開いてしまった。
ガラス張りの外。そしてそこはゆっくりと水量を増すプールのような場所だった。すでに窓の半分以上は水で覆いつくされている。
「水で覆われているみたいだね、この部屋」
どこかつまらなさそうに、落胆したようにつぶやいた。しかし、この窓を破れば出れるだろう。美咲は。僕はというと、この水に、底知れぬ何かを抱いた。
「美咲ちゃん……この窓割ったら出れるかもしれんわ……上開いてるっぽいし……あと部屋に溜まってるこれも、たぶん逃げていく……」
僕は勇気と言われるものを振り絞った。
「窓……か……何で割るの?強化ガラスとかだと割れないかもしれないよ?」
「ノコギリじゃないかな……柄のところで殴ればワンチャン……」
「あ、柄なんだ……刃で行くのかと……」
「それは強化ガラスじゃなくてもキツくない……?」
それからしばらく悩み続ける僕達。時間は刻々と終わりに近づいていたが、最後の判断を下せずにいた。
「…………やっぱりこれは最終手段にしよっか」
「そうやな……部屋の中、まだ見れてない物あるし、ドッキリだった時の証拠として警察に叩きつけれるしな」
ハハハ、と笑ったお道化に美咲がついてこず、僕は表情を曇らせてしまった。
僕は白いファイルを手に取り開いた。隣には美咲が、それを覗き込むように立っている。それはアルバムだった。寄り添い笑いあう2人の男女、それは先ほどの黒いファイルと違う、紛れもない僕達2人であった。まるで無くしてしまった記憶を辿るように、無言でページをめくる。
あの時行った海岸、あの時喋った公園、あの時、あの表情、あの言葉────
そして、最後のページに小さなメモが挟まっていた。それは紛れもない美咲の字であった。
『━━━━しまってごめんなさい』
最初の言葉は黒く塗りつぶされ読めなかったが、震える文字でこう書かれていた。
─Final Roll─
刻一刻と、パソコンの数字が減り続けている。部屋に漂う毒ガスは徐々に部屋を満たし始めているようで、美咲の顔色が徐々に悪くなりはじめていた。
「海里君……やっと……全部思い出したよ……」
「…………そっか」
目線を逸らそうと、僕は美咲と反対側を向いた。何もない部屋が僕の前に広がり、僕はこれらか起こることを想像した。きっと、彼女ならこの選択をしてくれる、そう思った。視界の端からゆっくりと美咲が現れる。その手には、しっかりと先ほどのノコギリが握られており、僕はこの後に起きることを想起した。それが彼女の選択なのだろう、覚悟はしていた。
まるで小学生のような気を付けの姿勢のまま、美咲はゆっくりと深呼吸をする。
「海里君……」
「はい、なんでしょうか」
僕はできる限りの笑顔で、彼女の目を見つめる。不安に支配され震える瞳に、僕は語り掛けるように視線を送る。
「何から話せばいいかわからないんだけど……とりあえず……謝らなければいけないことがあります……海里君に……」
美咲はその小さな唇を震わせながら、必死に、絞り出すようにゆっくりと言葉を吐き出していく。
「それは、ゆっくり話してほしいな」
「ふふ、でも、時間がないから手短にすませちゃうね……」
何も怖くないんだよ、そのノコギリを、僕の首に突き立ててくれれば君はここから────
「愛してしまって、ごめんなさい
あなたのこと、本当に好きだった
ごめんね」
キラリ、とノコギリが光を反射し、勢いよく美咲の首に襲い掛かった。その不意打ちのような出来事に、僕の体は瞬時に反応した。
ガキッ!という音がして、僕の手は強く、そのノコギリの刃と美咲の首の間に割って入った。血は滲まない。しかしバチッという音が部屋に響いた。なぜなら僕は……
「美咲君、君は全てを思い出したみたいだね。ならきっと、今僕に起きていることも理解できているはずだ。ここはアンドロイドを研究する施設。そして君は、止むをえず自らの最愛の人であった日野河 海里を殺してしまった。ここは殺人を犯した君を人目につかず始末する為の言わば処刑場。そして僕はその死刑執行見届け人……いや、アンドロイドだ」
僕は、そのままノコギリの刃を握りつぶした。これできっと、ノコギリは使い物にならないだろう。少し手の回路に傷が入ったのか、動きが微妙にちぐはぐな気もするが今はどうでもよかった。
「君が死ぬ必要はないんだ。僕は今、この部屋から出るパスワードを知っているんだ。君が今何をしようとしているか、何を考えているかはわかった。とりあえず、そのノコギリを一旦置いてくれ」
僕は冷静に、宥めるように美咲に言い放つ。ノートパソコンを調べているときに思い出した死刑見届け人としての役目、そして部屋から出る為のパスワード。
「あなただけ…あなただけ出てくれればいいの」
そう言う美咲はノコギリを強く握りしめて離す様子を見せなかった。その眼は後悔と懺悔に満ち満ちており、僕の言葉を受け入れる隙が無いことを物語っていた。
「でも安心した……あなたが毒ガスで死ぬことはないけど、この部屋から出れるかどうかが心配だったんだけど……でもパスワード知ってるならもういい」
僕には理解ができなかった。生物の最もたる欲求は自身の生存である、これは全ての生き物の共通であるはずだった。しかし、目の前の最愛の人は自らこの場で命を絶とうとしている。なぜ、なぜそこまで、なぜそこまでにできるのか。きっとアンドロイドの僕にはきっと、理解できるはずもなかったのだろう。
それでも、それでも僕はこの人に生きていてほしかった。これが僕の中にインプットされた日野河 海里の感情なのか、それともアンドロイドの自分の擬似的な感情なのか、それを考える程の時間はなかった。ただ、素直に、愚直に、斑鳩 美咲という人物の生存のみが僕の最大の目的であり到達点であった。これ以上の理性的な交渉は不可能だろう。ノコギリが使えなければ、もう美咲が自害することはないはずだった。あとは扉を開き、無理矢理にでも脱出しよう。
パソコンに向かい直し、パスワードの入力画面へと進む。あとは英数字を打ち込みエンターを押すだけの簡単な作業だった。きっとここから美咲を連れ出せば、僕たちは人々から追われる身になるだろう。命の危険と常に隣り合わせになるに違いない。それでもよかった。なぜなら隣には最愛の人が居るのだから。きっと彼女も、いつかその未来を共に受け入れてくれるはずだ、そんなことを考えていた。
バチッ、という音が部屋に響いた。この音を聞くのももう2度目だ。白衣の右肩がうっすらと焦げている。先ほどのタックルで曲がったフレームが回路に接触してショーットしたのだろう。右手は完全に僕の命令を無視し、機能を停止している。あと1文字、あと1文字タイプするだけだった。しかし問題はない、すぐに左手でタイプすればすぐに開く。何といっても美咲は電子工学会のエースだ。脱出すれば修理してもらえばいい。そう思っていた。
背後から鋭い、何かが割れる音と、水が流れ込む音が襲い掛かる。
やられた。刃だけ潰したのが間違いだったようだ。奪わなかった自分を恨みつつ、火花を散らす踵を翻した。視線の先には静かに、ノコギリを握りしめた手から血を流し俯く美咲と、轟々と水を吐き出す割れた窓が映る。そうか、それが君の最後の選択だったか。
僕はその姿を無言で眺めつづけた。責めはしない、きっと、彼女の固い意思の前では、パスワードの入力に成功し扉が開いていたとしても、僕の偽物の愛は為す術がなかっただろう。徐々にます水量は僕の回路をどんどん襲い、完全にショートした僕の足は自立する力を失い膝をついた。
胸まで水に浸かり、やがてそれが顎に掛かった時、僕の目に、ベッドの上に立つ美咲の姿が見えた。天井からぶら下がる1本のコードに、まるで愛しい人の顔に触れる様な優しく手を伸ばした姿を目にし、そこに自分と全く同じ顔をした男性の姿を見た。そうか、これが本物の愛なのだろう。0と1しか持ちえない、アンドロイドにはわからない何かが、そこにはハッキリとあった。
やがて遠のく意識の中で最後に見たものは、どこか幸せそうに宙をぶらつく、美咲の姿であった。
-----------------------------------
これがRoom-0から発見された日野河 海里こと、Player02の頭部メモリーから抽出されたログである。一部、水に浸かったことにより欠落している部分もあるが、今回の実験において徐々にアンドロイドの思考回路、及び感情回路が人間に近づきつつあることがわかる。日々の研究の成果と言えるだろう。
また、ログ内から理解できる通り、我々が極秘に研究を推し進める『電子回路を人間の脳に移植する』技術の確立も精巧さを増しつつあることがしっかりと表されている。これを用いれば記憶の改窮、感情、意思を操ることも可能であろう。実際、本来の記憶を失いながらも、新たに与えられた回路の記憶を用いてPlayer02との会話に成功しているという事実がはっきりとログに残されているのだから。前回、前々回の実験でも有益な情報が導き出されたことにより、研究が大きく前進したこともまた、今回のよい成果を残すキッカケになったことだろう。
これらの事実を踏まえた上で、より出資者の皆様方は我々の研究が一層人類に役立ちますように、ご配慮いただければと存じあげております。
2XXX年 5月 28日
電子工学研究会